下田修平のブログ (ほぼ休眠中)

選挙立候補時の経験を書いてみました、今後無所属でどこかに立候補される方の参考になれば幸いです。今は普通に勤め人です。

私にとっての軽井沢40年

 昔の写真とかあれば良いのですが、無いのでひたすら文章ばかりになります、あしからず。約40年前に親が南軽井沢に別荘購入してから、今に至るまでの振り返りです。

 まだ幼稚園児だったこともあり、購入当初の最初の思い出というのは曖昧ですが、「軽井沢は著名人が行く所・いる所」という漠然としたイメージは持っていました。例を挙げますと、まだ新幹線が開通する前の特急あさまに乗っていたら、隣の車両に車掌さんやってきて、とあるお客さんに恭しく挨拶していました。父がその様子を覗きに行った結果わかったのは、「王、長島、金田、堀内がいた。これから軽井沢でゴルフだって」ということでした。幼いながらも野球にそこそこ興味のある年頃だったので、彼らがとんでもないレジェンドであることは認識していました。

 近所にはレイクニュータウンがあり、そこには人造のレマン湖や、洋風のお城みたいな三越(そのお城はシュベルニー城という名称だったそうな)があったので、なんとなく「軽井沢=ヨーロッパみたいな場所」というイメージが定着。その後三越が撤退し、お城も解体され、レイクニュータウンのかつての賑わいは完全に消え去ってしまいました。。。それに代わって、プリンスショッピングプラザが栄えていくわけです。

 1980年代後半、私が小学生高学年の頃、旧軽井沢にはタレントショップが立ち並ぶようになりました。母はビートたけしの大ファンだったので、よく北野印度会社というカレー店に行きましたねえ。まだ小学生の私にとってはちょっと辛かったですが、「これが本場インドの味か!」と信じていました。のちに、そうでもないと知りますが。このタレントショップというのも、90年代に次々と撤退していったわけです。北野印度会社も2001年頃に閉店となりますが、代わりにテナントに入ったあってりめんこうじというラーメン店に衝撃を受けました。ドンペリセットというのが確か9800円でメニューに乗っていましたが、今から考えるとハイソな軽井沢別荘民への皮肉だったのかもしれません。あと、座敷席に雀卓があり、一応利用可能になっていました。中軽井沢に移ってからも次々と新しいことに挑戦しており、ラーメン界のコムデギャルソンと言っても過言では無いと思います。

 1990年に中学に進学すると、硬式テニス部に入部しました。これを機に、軽井沢でも親や友人とテニスをするようになり、けっこうハマりました。別荘地内に4面テニスコートあり、そこでは一度だけ神和住純さんがプレーしているのを見かけたことがあります。日本代表監督も務められたテニス界のレジェンドが、自分と同じコートでやっていることに感動しましたが、その後神和住氏は別荘を手放されたようです。ここでテニスをやって実感したのは、軽井沢の気圧の低さ。ボールがボンボン飛んで、いつもと同じ調子でやっていたらほとんどアウトします。あと、当然肺活量もより多く要求されることになるのですが、それは若さで克服していたような気がします。6人くらいで1日3時間はやってたはず。その後、軽井沢全般でテニス人口が減り、更地にされるテニスコートが目立つようになりました。我々の別荘地でも4面あったのが2面になり、一時は「1面でも十分では?」と理事会で議論されました。

 1996年に大学に進学し、テニスではなくサッカー部(一応体育会)に入部してから、あまり軽井沢に行く時間がなくなりました。1998年の長野五輪に合わせて上信越道長野新幹線が開通したのですが、その感動はほとんど記憶にありません。2001年に大学院に進学してから、後輩誘って何度か行ったことがあったかな、くらいなもんです。

 2004年に社会人になってからは、一人でふらっと行くことが多くなりました。営業部に配属になったこともあり、ゴルフをやらざるを得ない状況に。ゴルフには全く興味なかったのですが、まあ仕事の一種みたいなもんだからと渋々自分を納得させ、西軽井沢ゴルフ練習場に通っていた時期がありました(今気づきましたが、あそこは軽井沢ではなくて御代田だったのですね)。そこで、私の有り余るパワーはほとんど右向きのスピンに転化されることを思い知らされ、早めにゴルフとのお別れを決断することができました。サラリーマン、特に営業系は「ゴルフをやるのは業務命令」という雰囲気がどの会社でもあるでしょうが、興味ない人を無理やり巻き込むのはいかがなものかと思いますし、やりたくなけりゃ「やりません」とはっきり言えば良いかと存じます。

 その後、こんな私でも結婚する事となりました。旧軽井沢のホテル音羽の森で親族のみによるこじんまりとした式を挙げ、聖公会の司祭に祝福していただきました。それから数年後に娘が生まれた際、キリスト教に関連する名前を付けることとなりました。もしかしたら子宝に恵まれないかもしれないと思っていただけに、望外の喜びでした。神様に感謝です。

 子供ができると、行く場所も子供優先になります。日常的に利用する公園を、飽きが来ないようにあっち行ったりこっち行ったり。新型コロナの感染初期(2020年)は湯川ふるさと公園の遊具が使用禁止になって残念でしたが、それでも諏訪神社の前の公園や矢ヶ崎公園などに赴き、夏はよく虫捕りをしていました。親バカですみませんが、もし虫捕り世界選手権の4歳以下モンシロチョウ部門が有ったら優勝できたのでは、というくらいの腕前でした。ここ数年でいくつかの公園の遊具が一新され、娘も満足。町役場の地域整備課の皆様に感謝です。

 野生動物に恵まれているのも、小さな子供連れには良い環境です。直近一年でも、キツネ、タヌキ、鹿、ウサギに出会えました。朝5時頃に我が家の屋根裏からカタカタ小動物の足音が聞こえる時があるのですが、最初はネズミかと思ってました。たまたま5時頃起きて、足音の主を探しにベランダ覗いたら、リスがいました。キジもよく見かけますが、薩摩示現流の掛け声のようなあの鳴き声を、娘は怖がっています。娘が生まれる前の話ですが、キッチンの窓を開けっぱなしで東京に戻ってしまったことがあり、数か月後にまた来たらコウモリがリビングに住み着いていました。こういうリアルな出会いを通じて、動物一般に興味を持ってくれればと思います。

 私はもう人生の折り返し地点ですが、娘はまだまだこれから軽井沢と長い付き合いになるでしょう。一説によると、現時点で10歳未満の人たちの平均寿命は120歳になるとも言われています。つまり、あと100年くらいはこの町を見ていくことになる可能性が高い。その100年で、町も変わるところは変わっていくでしょうし、一方で変わらないように守り続けるべきところもあります。娘が見るこれからの軽井沢の100年が、美しいものであるために、私も貢献していきたいと思います。